LOGIN七海が自分の部屋へ行き、ドアが静かに閉まる音が聞こえてから、真帆はリビングの椅子に座り直した。
つい数分前まで、何の変哲もない夕食だった。みそ汁の湯気がおさまり、焼き魚の骨が白い皿の上に整然と残っている。「真帆、座ってていいよ。今日は僕が洗うから」と、悠人がいつものように皿を引き取った。それだけの夜だった。 三十八歳になる悠人は、どこへ出しても恥ずかしくない「気の利く父親」だ。不動産会社の営業管理職という忙しい立場にありながら、家事の分担を嫌がったことは一度もない。真帆の在宅勤務の日には昼食の心配をして連絡をくれ、週末になれば七海を連れて近所の公園や図書館へ出かけてくれる。 周りのママ友からは「悠人さんみたいな旦那さんでうらやましい」と何度も言われてきた。そのたびに真帆は、微笑みながら小さくうなずいてきた。夫に不満はない。少なくとも、今夜まではそう思っていた。時折胸の奥にすっと差し込む、微かな息苦しさのようなものを、自分自身の我儘だと言い聞かせて蓋をしてきただけだった。 テーブルの上には、七海が途中まで折ったランチョンマットが残されている。綿の布地についたシワを、真帆は無意識に指先で撫で伸ばした。 「悠人」 「ん?」 悠人は濡れたふきんでテーブルを拭き始めていた。真帆の目の前まで拭き進めると、ふっと手を止め、優しく真帆の顔を覗き込んでくる。 「びっくりさせちゃったね。ごめんごめん」 「さっきの話、どういうこと?」 「ああ、沙耶さんのこと?」 悠人は何でもないことのように椅子を引き、真帆の隣に腰掛けた。距離が近い。爽やかな柑橘系の柔軟剤の匂いがふわっと漂う。 「ほら、二ヶ月くらい前に、僕と七海で参加した地域のワークショップ覚えてる? 公民館でやった、子ども向けの工作教室」 「……うん。日曜日に二人で行ってきたやつ?」 「そうそう。あの時の講師をやっていたのが、水城沙耶(みずき・さや)さんっていう方なんだよ。児童向けの造形教室を個人で開いている先生でね」 悠人は膝の上に手を置き、丁寧に言葉を重ねていく。彼の説明はいつだって、聞いている間は筋が通っているように思える。 「七海がすごくあの工作を気に入ってさ。先生にも懐いちゃってね。その後も、木曜日に時間が合う時だけ、近くのカフェまで来てもらって、少し工作を見てもらったことがあったんだ。七海がどうしてもまたやりたいって聞かなくて」 「私、そんな話聞いてないよ」 「言おうと思ってたんだけどさ」 「木曜日って……毎週?」 「いや、毎週じゃないよ。ほら、木曜日は真帆の編集会議が長引くことが多いだろ? 僕が学童へ迎えに行ったあと、沙耶先生の都合が合う時だけ。ここ一、二ヶ月で三、四回くらいかな」 「でも七海は、『木曜日はいつも来る』って言ったよ」 「子どもの言う『いつも』だよ。何回か同じ曜日に続けば、そう覚えるだろ? 毎週会わせてたわけじゃないよ」 悠人は真帆の手の上に、自分の温かい手をそっと重ねた。真帆の冷え切った指先を包み込むように、優しく力を込める。 「真帆、最近仕事が忙しかっただろ? ECサイトの編集チーム、新商品の立ち上げで毎晩遅くまで残業してたし。僕としては、君に余計な気を遣わせたくなかったんだよ。それに、たかが習い事の延長みたいなものだしね」 「でも……『ママ』って呼ばせるのはおかしくない? 七海、沙耶ママって言ってたよ。パパといる時に会うって」 「ああ、それね」叩きつける雨粒が窓硝子を激しく揺らし、雨樋から溢れた水が暗闇の中に重い音を響かせていた。 菜月のマンションの玄関。真帆はスマートフォンを握りしめたまま、画面に残る悠人のメッセージを見つめていた。『七海は僕と一緒だ。八歳の誕生日を、正しい場所でお祝いしてくる。心配しなくていい。落ち着いたら連絡する』「正しい場所」という言葉だけが、画面の中で異様に浮き上がって見えた。 真帆の裸足は、雨を吹き込んだ廊下を走ったせいでまだ濡れていた。足の裏についた水が、玄関からリビングへ点々と跡を残している。つい数分前まで七海が眠っていた布団も、脱いだパジャマも、この部屋には残っているのに、本人だけがいない。 スマートフォンを握る手に力が入り、ケースの角が掌へ食い込んだ。『心配しなくていい』という一文が、今まで悠人から何度も向けられてきた優しい言葉と同じ調子で並んでいることが、真帆には耐え難かった。「お姉ちゃん、しっかりして!」 菜月が真帆の肩を抱き起こし、濡れたたたきから引き揚げた。菜月の顔も蒼白だったが、その瞳には冷静な強い光が宿っていた。「警察に電話する。今すぐ」 菜月がスマートフォンを取り出し、110番をタップした。耳にあてた受話器から電子音が漏れる。「……はい! 七歳の姪が、別居中の父親に無断で連れ出されました。明日、八歳になる子です。母親は引き渡しを拒否していて、学校にも接触を制限するよう伝えています。父親は篠宮悠人、三十八歳。……はい、車は黒の国産セダンで……」 菜月が警察官へ状況を簡潔に伝えている間、真帆はリビングへ戻り、フローリングの上に散らばったままの資料の山に飛びついた。 悠人の仕事鞄から出た物件パンフレット、手書きのメモ、そして写真館の次回撮影予約票。 真帆の指先が、何冊かの観光パンフレットの中から一枚の薄い領収書を引き当てた。 紙は何度も折りたたまれていたせいで柔らかくなり、折り目の一部が白く毛羽立っていた。焦る指で開こうとすると端が引っかかり、真帆は一度だけ深く息を吸った。文字を読み違えるわけにはいかなかっ
「パパね……『木曜日の夜、ママが寝たらマンションの下までおいで。日付が変わったら、七海のお誕生日を一番にお祝いしよう』って……。『ママには内緒にして、びっくりさせようね』って言ってたの」 大人の秘密。 またしても、悠人は七海に「ママを驚かせるための秘密」として接触していたのだ。 七海は真帆の服の裾を小さく引っ張り、怯えたように囁いた。「……七海、また変なこと言っちゃった……? パパに『言っちゃダメ』って言われてたのに……」 真帆は七海の小さな身体を、折れよとばかりに強く抱きしめた。 手がガタガタと震えて止まらなかった。 引き下がったのではない。 悠人は「分かった、無理強いはしないよ」と真帆には引き下がったように見せ、その裏で七海へ直接連絡していた。 七海の八歳の誕生日。 7月10日。 しかも、翠ヶ湖の宿はすでに予約されている。真帆の意思とは無関係に、七海をあの場所へ連れて行く準備が進められていた。「行かないよ」 真帆は七海の顔を両手で挟み込み、まっすぐにその目を見つめた。「七海、今日はもう外に出ない。ママと一緒に、菜月ちゃんのおうちにいるの。お父さんが下に来ても、玄関を開けちゃだめ。分かった?」「うん……分かった……」 七海は真帆の緊迫した表情に圧倒され、何度も小さくうなずいた。「でも……パパ、下でずっと待ってるって言ってたよ」 七海が不安そうに眉を寄せた。真帆は小さく首を振った。「待たせていいの。これは大人同士で話すことだから、七海が行かなくていい。ママからちゃんと話すから」 真帆は立ち上がり、すぐに菜月へ電話をかけた。 職場にいる菜月に事情を話し、明日の金曜日は外出を一切やめ、マンションの部屋から一歩も出ないで過ごすことを確認し合った。 真帆は七海のキッズスマホを取り上
それからの二日間、悠人からの連絡はパタリと途絶えた。 追及のメールも、電話も来ない。 真帆は在宅勤務の時間を調整しながら、七海の学校への送り迎えを徹底した。登校時は真帆が校門まで付き添い、下校時は学童の出口で待ち構えて七海の手を握った。 学童の吉岡先生も、学校の教頭先生も、事情を察して厳重に注意を払ってくれていた。 悠人が学校周辺に現れたという報告もなかった。 七海は菜月の家での生活に少しずつ慣れ、夜は真帆の隣でぐっすりと眠り、朝は菜月が焼いてくれたトーストを美味しそうに食べていた。 木曜日の夕方。 真帆は七海を連れて、菜月の部屋へ戻ってきた。 外は蒸し暑く、夕立が来そうな重い雲が空を覆っていた。「ママ、今日のお夕飯なぁに?」 七海が玄関で長靴を脱ぎながら、弾んだ声で尋ねてきた。「今日はね、七海の好きなハンバーグだよ。菜月ちゃんが合挽き肉買ってきてくれたから」「わーい! 七海、玉ねぎこねるのお手伝いする!」「ありがとう。手、きれいに洗っておいでね」 七海はパタパタと手洗いに走り、真帆は買ってきた食材を冷蔵庫にしまっていった。 キッチンのカウンターで玉ねぎをみじん切りにしていると、トントンという規則的な音が静かな部屋に響いた。 七海が手洗いを終えて戻ってきて、ローテーブルの上に置いてあった自分のお絵かき帳を開いた。 クレヨンを握り締め、楽しそうに紙の上を滑らせている。 真帆は包丁を動かしながら、微笑ましい気持ちで七海の背中を見つめた。 これでいいのだ、と思った。 あの男から離れ、自分の足で立ち、七海の安全を守っていく。最初は不自由で、狭い部屋での居候生活かもしれないが、七海の弾んだ声を聞けるなら、どんな苦労も耐えられた。「ママ」 七海がクレヨンを持ったまま、ふと顔を上げた。「なぁに?」「今日ね、パパとお出かけするの」 トントン、とまな板を叩いていた包丁の手が、ぴたりと止まった。 真帆の全身の血が、一瞬で引いていく感覚があった。
スマートフォンの画面に並んだ文字を見つめたまま、真帆は静かに呼吸を整えた。 翌朝。菜月の部屋のキッチンで、コーヒーメーカーがコトコトと低い音を立てて湯を落としていた。香ばしい苦みが部屋に満ちていく。 画面に表示されていたのは、前日に悠人から届いたメッセージだった。『家族三人で、七海の八歳の誕生日をお祝いしよう』『僕たち、やり直せるよ』 怒りや高圧的な態度を一切見せず、ただ傷ついた善良な夫として許しを乞う文面。 かつての真帆なら、この温かな言葉に揺らいでいたかもしれない。自分の感情の方が冷酷で、夫の優しさを無駄に踏みにじっているのではないかと自責に沈んでいただろう。 だが、真帆はもう迷わなかった。 画面上のフリック入力を素早く動かし、返信を作成する。『旅行には行きません。七海の誕生日も、三人でお祝いするつもりはありません。これ以上の連絡は控えてください。やり直す意思はありません』 送信ボタンを迷いなくタップした。 画面上の文字が「送信済み」に切り替わる。 真帆はスマートフォンをテーブルの端に置き、出来上がったコーヒーをマグカップに注いだ。黒い液体がカップのフチまで満ち、湯気が鼻先をくすぐる。 悠人がどう反応してくるか。 怒り狂って電話をかけてくるか、それとも「君は本当に冷たい人だな」と傷ついた振りをして罪悪感を煽ってくるか。 真帆はカップを両手で包み込み、身を固くして待った。 しかし、十分が経過しても、半時間が経過しても、電話は鳴らなかった。 一時間後、スマートフォンが短く一回だけ振動した。 真帆は息を呑んで画面を開いた。 送信者:篠宮 悠人『分かった。君がそこまで嫌なら、無理強いはしないよ。 今まで僕の都合ばかり押し付けてごめんね。七海と二人で、ゆっくり過ごしてくれ。 仕事もあまり無理をしないようにね』 拍子抜けするほど、あっさりとした返信だった。 追求も、引き留めも、怒りの言葉すら入っていない。ただ真帆の意思を尊重し、素直に引き下がった男の、哀愁を帯
真帆の手の中で、スマートフォンが小さく震えていた。 完璧な謝罪。 完璧な撤回。 自分に非があったと素直に認め、真帆の自由を返し、優しく復縁を求めてくる姿勢。 もし、真帆が九年前の事故に残る不自然さや、偽アカウントの証拠、そして物件資料が示すものに気づいていなかったとしたら。「私が考えすぎていただけかもしれない」「夫は本当に反省して、やり直そうとしてくれているのかもしれない」と、その優しさにほだされ、家へ戻ってしまっていたかもしれない。 証拠を突きつけられた後でも、悠人は怒鳴るのではなく、以前と変わらない「優しい夫」の顔で、真帆に戻るよう促してきた。 その優しさこそ、真帆が長いあいだ自分の違和感を飲み込んできた理由の一つだった。 真帆は冷え切った目で画面を見つめ、返信を打たずにスマートフォンを伏せた。 テーブルに伏せた端末の光が消えると、部屋には急に生活の音だけが戻ってきた。キッチンの換気扇、冷蔵庫の作動音、隣の部屋で菜月が衣類を畳むかすかな音。悠人のいない場所には、説明を求められない静けさがあった。 真帆は両手を膝の上に置いた。以前なら、返信しないこと自体に罪悪感を覚えていたはずだ。相手が謝っているのに無視する自分は冷たいのではないか、と。今は、その反射のような罪悪感が胸の奥に浮かぶのを、ただ見送ることができた。 揺らぎはしなかった。 真帆はもう、その優しさだけを根拠に悠人の言葉を信じて戻ることはできなかった。◇ その頃。 自分の造形教室の準備室で、アコーディオンカーテンを閉め切って座っていた水城沙耶のスマートフォンが、静かに振動した。 沙耶は震える手で画面を取り出した。 準備室の棚には、子どもたちが乾かしている紙粘土の動物や、切りかけの色紙が並んでいた。ついさっきまで聞こえていた教室の笑い声はもうなく、残っているのは絵の具と糊の匂いだけだった。 沙耶は作業台の端に手をつき、指先に力を込めた。自分が七海へ近づいたことも、境界を越えたことも消えない。それでも、もう悠人の言葉だけを現実の基準にしてはいけない。そう決めたばかりだった。
午後三時。 安全の確保と、手続的な防壁の構築をすべて終えた上で、真帆はついに悠人へメッセージを送る決意をした。 あの夜、家を出てから。 悠人からは家を出た夜から何度か「どこにいるの?」「心配してるよ」「三人で話そう」とLINEが届いていたが、真帆はすべて既読をつけずに無視してきた。 感情的な問い詰めや、LINE上での説明合戦に入るつもりはなかった。議論を始めれば、悠人はまたあの滑らかな論理で真帆の言葉をすり替え、真帆を「ヒステリックで支離滅裂な妻」へと追い込んでくるからだ。 真帆はノートパソコンの画面で文章を作成し、推敲を重ねた上で、短く悠人のLINEへ送信した。『七海と一緒に、安全な場所にいます。しばらく家には戻りません。七海との面会や連絡も、当面の間は拒否します。今後のやり取りは、すべて書面か代理人を通して行ってください』 感情的な怒りの言葉は一切排除した。 ただ、事実と拒絶の意思だけを込めた一文。 送信ボタンを押すと、画面上の文字が「送信済み」となった。 真帆はスマートフォンをテーブルの上に置き、深く息を吸い込んだ。 これで、宣戦布告は完了した。 悠人がどう反応するか。怒り狂って電話をかけてくるか、警察に捜索願を出すと脅してくるか。真帆はどんな攻撃にも耐えられるよう、身体を固くしていた。 しかし。 わずか五分後に届いた悠人からの返信は、真帆の予想を遥かに裏切るものだった。 画面がポッと点灯し、悠人からのメッセージが表示された。『真帆。急にいなくなって、本当に心配したよ。でも、無事でよかった』 真帆は眉をひそめた。 怒りの気配すら微塵もない。文章は続き、画面を埋めていく。『君をここまで追い詰めてしまっていたなんて、僕の配慮が足りなかったよ。本当にごめんね。仕事のストレスや、家庭のことで君がどれだけ大変だったか、僕が一番理解してあげなきゃいけなかったのに。 僕が全部悪かったんだ。君を不安にさせるような言動があったなら、何でも謝るよ』 昔の、優しい悠人だった。