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第2話 木曜日の女

Author: 花柳響
last update publish date: 2026-08-27 01:32:30

 七海が自分の部屋へ行き、ドアが静かに閉まる音が聞こえてから、真帆はリビングの椅子に座り直した。

 つい数分前まで、何の変哲もない夕食だった。みそ汁の湯気がおさまり、焼き魚の骨が白い皿の上に整然と残っている。「真帆、座ってていいよ。今日は僕が洗うから」と、悠人がいつものように皿を引き取った。それだけの夜だった。

 三十八歳になる悠人は、どこへ出しても恥ずかしくない「気の利く父親」だ。不動産会社の営業管理職という忙しい立場にありながら、家事の分担を嫌がったことは一度もない。真帆の在宅勤務の日には昼食の心配をして連絡をくれ、週末になれば七海を連れて近所の公園や図書館へ出かけてくれる。

 周りのママ友からは「悠人さんみたいな旦那さんでうらやましい」と何度も言われてきた。そのたびに真帆は、微笑みながら小さくうなずいてきた。夫に不満はない。少なくとも、今夜まではそう思っていた。時折胸の奥にすっと差し込む、微かな息苦しさのようなものを、自分自身の我儘だと言い聞かせて蓋をしてきただけだった。

 テーブルの上には、七海が途中まで折ったランチョンマットが残されている。綿の布地についたシワを、真帆は無意識に指先で撫で伸ばした。

「悠人」

「ん?」

 悠人は濡れたふきんでテーブルを拭き始めていた。真帆の目の前まで拭き進めると、ふっと手を止め、優しく真帆の顔を覗き込んでくる。

「びっくりさせちゃったね。ごめんごめん」

「さっきの話、どういうこと?」

「ああ、沙耶さんのこと?」

 悠人は何でもないことのように椅子を引き、真帆の隣に腰掛けた。距離が近い。爽やかな柑橘系の柔軟剤の匂いがふわっと漂う。

「ほら、二ヶ月くらい前に、僕と七海で参加した地域のワークショップ覚えてる? 公民館でやった、子ども向けの工作教室」

「……うん。日曜日に二人で行ってきたやつ?」

「そうそう。あの時の講師をやっていたのが、水城沙耶(みずき・さや)さんっていう方なんだよ。児童向けの造形教室を個人で開いている先生でね」

 悠人は膝の上に手を置き、丁寧に言葉を重ねていく。彼の説明はいつだって、聞いている間は筋が通っているように思える。

「七海がすごくあの工作を気に入ってさ。先生にも懐いちゃってね。その後も、木曜日に時間が合う時だけ、近くのカフェまで来てもらって、少し工作を見てもらったことがあったんだ。七海がどうしてもまたやりたいって聞かなくて」

「私、そんな話聞いてないよ」

「言おうと思ってたんだけどさ」

「木曜日って……毎週?」

「いや、毎週じゃないよ。ほら、木曜日は真帆の編集会議が長引くことが多いだろ? 僕が学童へ迎えに行ったあと、沙耶先生の都合が合う時だけ。ここ一、二ヶ月で三、四回くらいかな」

「でも七海は、『木曜日はいつも来る』って言ったよ」

「子どもの言う『いつも』だよ。何回か同じ曜日に続けば、そう覚えるだろ? 毎週会わせてたわけじゃないよ」

 悠人は真帆の手の上に、自分の温かい手をそっと重ねた。真帆の冷え切った指先を包み込むように、優しく力を込める。

「真帆、最近仕事が忙しかっただろ? ECサイトの編集チーム、新商品の立ち上げで毎晩遅くまで残業してたし。僕としては、君に余計な気を遣わせたくなかったんだよ。それに、たかが習い事の延長みたいなものだしね」

「でも……『ママ』って呼ばせるのはおかしくない? 七海、沙耶ママって言ってたよ。パパといる時に会うって」

「ああ、それね」

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